月別アーカイブ: 2006年7月

重荷を負っている人は

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)
この『重荷』とは、実際の生活の中での疲れや苦しみ、と解釈しやすいですが、神様は、もっと深いところにあるものを指しておられます。
自己中心に生きていて、神様から離れてしまっている状態が、私たちのなかで重荷となって覆いかぶさっているのです。
いくら生活の中での悩みがなくなったように思われても、その神様から離れた状態が解決されない限り、私たちの中の重荷は消えません。
そして、その重荷をとり払って、本当のたましいの安らぎ、心の平安を与えてくださるのは、イエスさまだけなのです。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる。」(詩篇55篇22節)

最近何度か教会に通ってきているRさんが、「洗礼を受けたい」と決心されました。
礼拝後に牧師と一緒に祈っているのを、私は近くで会計の奉仕をしながら聞いていたのですが、Rさんは「神様、今まであなたに背を向けてばかりいてごめんなさい」と、泣きながら祈っていました。
私もこのあいだ、日の暮れる頃、家の近くの並木道のベンチに腰を下ろして祈った時、過去に自分が犯した様々な罪が思い出されて、涙を流しながら「ごめんなさい」と祈りました。そして、こんな私でも愛してくださっているイエスさまのことを思いました。
そうして、神様に心のうちを明かして祈ると、本当にそのあと心が軽くなり、穏やかな平安に満たされるのがわかります。
今日、Rさんもそれを体験されたのだなあ、と思い、とてもうれしくなりました。

Irrgarten(迷路の庭)

ウイーン市内にある植物園に行きました。
その中に、樹木でつくられた迷路があり、さっそくみんなで入りました。
思ったよりも迷路は長く複雑で、展望台にのぼった友人の指示がないと、一生出られないかも!と思うほどでした。
でも、その友人の的確な指示で、私たちは無事出口に辿り着きました。
私たちの人生も、このように、神様がいつも導いてくださると、迷うことがないのですね。

あなたの罪はゆるされた

マルコの福音書2章1〜12節の記事です。
四人の人が、中風の者をイエスさまのそばに連れて行こうとしましたが、群衆のために近寄ることができなかったので、屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を床のままイエスさまの前につりおろしました。
そこで、イエスさまはこうおっしゃいました。
「子よ、あなたの罪はゆるされた」
この時、中風の者も、運んだ四人の人も、彼の病気を治してくださることを期待していたに違いありません。しかし実際は、さきのようなお言葉でした。(この後、中風は癒されました)
私たち人間の一番の悩み・苦しみは、自分の中に罪があること、神様と離れてしまっていることなのです。それが解決されれば、他のものもすべて解決されるのです。人間は、今この目に見えることしか分からないので、たまに見当違いの願いをしてしまったりもします。
イエスさまは、人間が本当に解決されなければならないのは何かをご存知です。そして、人間の罪を赦すのは、神様であるイエスさまにしかできません。
「あなたの罪はゆるされた」という、イエスさまの最高の祝福をいただいて、歩んで行きたいと思います。

種蒔く人

種蒔く人ーーーーこの言葉を聞くと、ミレーの有名な絵画を思い出す人も多いのではないでしょうか。私は、この絵が昔から好きです。
神様のことを伝えることを、この”種を蒔く”という言葉でよくあらわします。
御言葉の種を、人々の心に蒔くこと、それが私たちクリスチャンのすべきことであり、また喜びです。
でも決して、育てようとしないことです。育ててくださるのは、神様の仕事。私たちは、ただただ、忠実に種を蒔いていくのみです。
この、種蒔く人のように。